忍野八海の不思議

忍野八海縁起

  忍野八海は富士山北東、忍野村忍草にある八つの池(出口池、お釜池、底抜池、 銚子池、湧池、鏡池、菖蒲池)の総称です。富士山に降った雪や雨が数十年かけて伏流水となって湧き出しています。富士山の伏流水が湧き出す池が八つだけだと思われている方も少なくないようですが、忍野村にはたくさんの池があります。なぜ、忍野八海と言われるようになったのでしょう。
 
 東円寺と富士山の関係は、長谷川角行が開祖と言われる富士講よりも、さらに歴史をさかのぼります。富士山がまだ噴煙を上げているころ、富士山に登ることができた人は限られいました。特に、平安時代から鎌倉時代、修験道と言われる修験者にとって、噴煙を上げている富士山に登ることは、修行の一つであり、富士山の霊験を手中に収めることができると信じられていました。そのような時代、忍草には修験道と関わる宿坊を兼ねた富士講でいう御師のような寺院が数軒ありました。しかし、時代とともに修験道は衰退しました。
 
 時は天保時代に移りました。天保の大飢饉は、忍草村でも大変な事態が起こっていました。天保8年から9年にかけて、多くの村人が亡くなりました。村を捨て出ていく家族もあったようです。当時、富士北麓地域を統括していたのは、谷村代官所(現:都留市)でした。しかし、歴史的にも有名な郡内一揆(甲斐東部郡内地方:都留郡)が起こりました。谷村代官所は混乱し代官所として機能していなかったようです。忍草村の村役は、市川大門の代官所へ直訴しました。
 
 市川大門村の大寄友右衛門という長百姓は、忍草村の人々を救済するため、知恵を絞って、当時流行していた富士講にあやかって、村興し事業を考えました。その事業によって、村人は劇的に救われます。
 
 5番霊場の湧池は、古くから修験道のみそぎの池として重要な役割を果たしていました。湧池を中心とした霊験あらたかな富士山の湧水を利用した「根元八湖再興」の事業が始まりました。現存する「根元八湖再興」の版木には、5番霊場に「行場」という文字が刻まれています。湧池の重要性を物語っています。
 
 友右衛門は手始めに、市川大門を中心とした近隣の村々に声をかけて、「大我講」という富士講の講中を組織しました。天保11年元旦、畳一畳ほどの大きさの掛け軸に「お身抜き」といわれる富士講独自のお経のようなものを書いた力強い書が残されています。再興にかける友右衛門の意気込みを感じます。
 
 幕末、「江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講、江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人」と謡われるほど隆盛した富士講は、天保13年幕府によって「富士講禁止令」が発令されました。そのような中で、「大我講」は東叡山寛永寺の認可を頂戴しました。友右衛門は、私財を投じ「根元八湖再興」に心血を注ぎました。この頃になると飢饉は終息してきました。忍草村は寒冷地のため穀物はほとんど育たなかった時代に、農作物以外に収益を見込んだ友右衛門の発想は、観光産業に目を付けた先駆者だったのではないでしょうか。
 
 忍草村に湧くたくさんの池の中から、湧池を中心に北斗七星の形になるように池を七つ選びました。北斗七星になくてはならない星が北極星です。1番霊場出口池は、2番霊場から少し離れた場所にあります。その形状は版木に記されています。「北斗の形象なり」と。
 
 八つの池を選び、それぞれの池に八大竜王をお祀りしました。一般的に八大竜王はその総称で祀られているます。しかし、根元八湖霊場の八つの池には、竜王碑が置かれ、それぞれに竜王が祀られています。また、各池の竜王碑には、和歌が詠まれています。池を巡り、お経を読むように和歌を詠みあげたそうです。和歌についても、版木が現存しています。友右衛門の八大竜王に対する思いは深ったようです。天保14年根元八湖霊場は再興されました。畳一畳ほどの大きさの掛け軸に、中心には八大竜王と書かれ、両側に八大竜王個々の名が力強く書かれています。「お見抜き」と「八大竜王」の掛け軸は、友右衛門の子孫によって修復され現存しています。
安政3年12月7日大寄友右衛門は73歳の生涯をとじました。
 
 再興以後は、根元八湖霊場で身を清め、忍草朝日浅間宮(現:忍草浅間神社・別名:忍野八海浅間神社)に参詣し、別当東円寺で入山許可の御印紋を受けて登山するという、根元八湖信仰(大我講)が栄えました。
天保14(1843)年以後、大我講は関東一円に知られる大講中となりました。明治の廃仏稀釈が発令されるまでの25年間、忍野八海は白装束を着た富士講中が大勢訪れました。やがて、明治の廃仏毀釈以後、富士講の衰退とともに根元八湖霊場は世間から忘れられていきました。
 現在の忍野村を知る人は昔の忍草村を想像できないかもしれません。茅葺屋根の民家が点在しているところに、突如池が現れます。湧き出す水の量も現在より多かったようです。それは幻想的な雰囲気だったことでしょう。昭和5年、「忍野八海」として国の天然記念物に指定されました。「忍野八海」という名称に変わってしまったのは、天然記念物に指定された後のことです。
 
 1987年テレビ朝日のカメラマンが、命綱をつけずに水中撮影をして命を落とすという事故がありました。連日、報道カメラマンが忍野八海を中継したことによって、忍野八海は日本中に知られることになりました。
 
 高度経済成長期は、近隣の山中湖村に別荘ブームが起こり、同時にテニスブームが起こりました。山中湖に収容しきれなくなった方の受け入れ先が忍野村になりました。忍野村にも民宿ブームが起こりました。多くの観光客や宿泊客が来ることによって、開発が進みました。都会ではありませんので、高層ビルなどは建ちませんでしたが、現在60代くらいの方々が小学校の低学年だったころの忍野村を懐かしがられます。当時の忍野村の面影を感じられないからだそうです。
 
 近年、写真家の岡田紅陽が忍草に別荘を構えて、多くの作品を世界中に紹介し、忍野八海は富士山の撮影地として、広く知られるようになりました。また、1983年4月には、忍野八海(湧池)の水が、スペースシャトル・チャレンジャーに搭載されて、宇宙で人工雪の実験に使われました。宇宙での雪の結晶はどんな形をしていたでしょう?東円寺を訪れた時に住職に聞いてみてください。
 
 2013年6月、富士山は世界文化遺産となりました。忍野八海は富士山の構成資産として忍野八海を一括りとされず、池の一つ一つが構成資産となりました。忍野村には、構成資産が8つあります。当初、構成資産候補としての忍野八海の登録は危ぶまれました。現代に、根元八湖霊場として巡礼の実態が確認できなかったからです。しかし、東円寺に残る版木や古文書類、特に、根元八湖再興絵図の版木と、根元八湖再興費用書掛帳は、忍野八海が構成資産になる重要な書類としてユネスコの諮問機関であるイコモスに提出されています。
 
 観光産業に着目した友右衛門の先見の目は、200年経った現代も色あせることなく、忍野村の人々の生活を潤してくれています。根元八湖霊場は、道教・陰陽道・仏教など、神仏によって守られていることを感じます。
 
※大寄友右衛門の直筆の掛け軸は、東円寺HP寺宝・文化財:忍野八海古文書類をクリックしていただきますとご覧いただけます。また、根元八湖再興絵図の版木、根元八湖再興費用書掛帳も載せてあります。
 
 

忍野八海観光案内図

平成21年12月現在

忍野八海観光案内図

(2009-12-11・1017KB)

根元八湖再興絵図版図