寺庭のつぶやき

日本文化・・

2018-06-27
 日本文化は、自然文化と言っても過言ではないと思います。戦前までは、現在のように、バイオ技術はありません。温室もありません。太陽と雨、風など自然が与えてくれる恩恵(神)とともに歩んでいたのだと思います。時には恩恵ではなく、台風や竜巻、地震などの脅威もあり、その度に、荒ぶる神を沈めるべく、祈りを捧げました。
 
 科学の発展によって、現代は太陽の光が当たらなくても、ホウレン草やレタスなどがビルの一室で栽培できるほどの飛躍的な技術革新によって、神に祈りを捧げなくても食料は人の手によって生まれています。
 
 けれども、様々な技術は本当に人の手だけで生まれているのでしょうか?水や空気が存在しなけれ生きることはできません。また、天災を食い止めることができるのでしょうか?自然の力は、人の力で説き伏せられるものではないように感じます。
 
 選択の自由・・は、苦しみを増幅させるものです。自分がなにを欲しているのか定まっていないのに、視覚や聴覚に必要以上の情報を与えて、欲望を駆り立たせて消費を促す。消費がなければ、経済が成り立たない・・世の中の仕組みを理解することはできますが、私たちの人生に何が残るのでしょうか・・
 
 自然を神を仰ぎ、慎ましく、豊かな心をはぐくむ日本文化の見直しは、義務教育の現場から発信しなくては親だけで解決できる問題ではないように感じます。

大掃除・・・

2018-06-26
 今日はとても天気が良く、日差しもあり絶好の掃除日和です。落ち着いて掃除をする暇はなく、けれども、少しずつ物は増え、不必要なものもあると思いながら、捨てることが出来ず・・・やはり、そんな時は掃除が一番です。
 
 伝統文化親子教室をしていることで、花器が増えてきました。自由花と言っても、四季折々の雰囲気を学んでいただこうとお思いますと、花器も四季に合ったものを・・と。
 
 楽しく学んでいただくためには、指導者の工夫も必要です。知識豊富ではありませんので苦労が多く、若い頃にしっかり学ぶべきだったことを思い知らされます。
 
 下駄箱に使用していた場所に花器をしまい、靴の整理を始めると、孫の靴だけでもかなりの数があり、しまい込んで忘れていた靴が若い頃のもので、現在は履けない高さのヒールがあったり・・下駄箱の整理に半日を費やしました。
 
 けれども掃除は気持ちが良いものです。思いきって捨てるもの・・綺麗にすれば差し上げられるものなど・・今日はとても充実した日でした。

東円寺の御詠歌に・・

2018-06-25
 東円寺の御詠歌は、30以上前に習った住職が指導して練習が行われています。先日、比叡山阿弥陀堂での回向法要のときに、御詠歌がお唱えされました。
 
 この背景には、後継者の育成という大きな問題があるようです。比叡山に修行に来ると必然的に御詠歌を習うそうです。しかし、寺院でも自坊に御詠歌の講員さんがいらっしゃるところは少なく、修行時には必死に習ったのではないかと想像しますが、比叡山を下りられた後は御詠歌をする機会は減っています。そのため忘れてしまう人も多いようです。
 
 現在、比叡山では、比叡山の開門と閉門前に比叡山賛仰和讃という御詠歌を流されいました。この効果は、比叡山のお坊さんだけではなく、職員として働いている一般の方が、鼻歌交じりに口ずさんでいるそうです。
 
 東円寺でも、阿弥陀堂でお唱えされていた「追善和讃・比叡山賛仰和讃をお唱えできるようになりたい・・というご意見がありましので今日から2曲練習曲が増えました。
 
 あまりなじみのない曲を教えることは大変そうです。御詠歌のCDが販売されているのでそれを車で必死で聞きながら、運転をしている住職です。

土・日曜日になると・・

2018-06-24
 土・日曜日、幼稚園はお休みです。幼稚園では毎朝、今日が何月何日何曜日天気は・・と言っているので、朝起きるとまず天気が晴れなのか曇りなのか、雨なのかを無意識に確認しています。
 
 数日間雨が続いていると、ペダルのない自電車をマウンテンバイクのつもりで運転する3歳の孫は、雨が降っていると自電車に乗ることが出来ないことが悲しい様子です。
 
 9月で5歳になる孫は、5月の末ごろから補助輪なしで普通の自電車に乗れるようなり、得意げに乗り回しています。時には網を持って蝶々を捕まえてみたり・・自分たちで遊びを見つけて全力で遊んでいます。
 
 お寺を使って法事をする時は、お経が外に聞こえてきますので、本堂から皆さんが出てくるまで、外で遊ぶことを控えさせています。様々な状況判断を覚えるためには、素晴らしい環境だと思います。しかし、時にはそれを窮屈に感じることもあると思います。そのような状況の中で、仕方がない・・と諦められる穏やか心を養ってほしいと思っています。

少しだけ・・

2018-06-23
 御詠歌に無常和讃という曲があります。「人とを生まれて50年 花にたとえてあさがおの 露よりもろきみを持ちて なぜに後生をねがわぬぞ・・」これが1番の歌詞です。
 
 織田信長の時代、平均寿命が50歳くらいだったのでしょうか・・しかし、今後寿命は100歳に・・長く生きられることは良いことです。けれども、私個人の思いは、長く生きることよりも、人として年齢を重ねた分だけ深い人になりたいものです。
 
 深い人・・というのも、何をもって深い・・とするのか難しいところです。けれども、毎日行き当たりばったりで人がナイフで刺されたり、事件性のあるご遺体が見つかったという内容のニュースを見ますと、「生きる・・」ということを、個々がしっかり見つめて行かなければこのような事件は増加してしまうでしょう。
 
 故高田好胤和尚は、我がことだけを考える風潮にあったバブル期に、このままでは親を殺し、子を殺すような時代が来るとお説教で説かれていました。
 
 少しだけ、今自分がしようとしていることは、どのような結果をもたらすだろう・・と客観的に見つめることができたら・・一瞬でいいから、今殺意を持った目の前にいる人に、家族がいることを想像できら・・我が子をぶつまえに、どれほど望んでも子供が授からない人がこの世の中にたくさんいる。そう思うことができたら、振り上げた手を下げることができたかもしれません・・ためらう心が生まれるのではないかと思います。
 
 防ぐことの出来る事件は多いのではないかと思うのですが。なぜに後生を願わないのでしょう。
天台宗 東円寺