平安初期の弘仁年間(810~824)、空海上人東国巡錫の折、富士山北麓に霊温泉の湧出するところ(現、湯ノ元)を見つけ、一宇を建立。大日如来を安置されたのが創建の由緒と、古い寺伝に残ります。創建当初は湖畑山南泉寺と号し、真言宗のお寺でした。
鎌倉時代に入り、寺号を忍草山大日院東圓寺と改め、天台寺院となったようです。古くは、富士山の鬼門を守護する蛇頭疫神社に隣接する地に在り、富士の裾野での巻き狩りを好んだ源頼朝より広大な寺領を受けましたが、江戸時代の宝永噴火(1707)の後、台風で全壊。正徳元年(1711)に現在の地に移りました。
創建当初より、富士修験の道場として重んじられ、また日本古来の、神、仏がともに在(いま)す神仏習合の形態に基づき、朝日浅間宮(現、忍草浅間神社)の別当寺院として神社とともに歩み、とくに江戸後期には、富士講中が禊の地とした元八湖霊場(現、忍野八海)の拠点の寺として隆盛を呈し、飢饉で大打撃を受けた村の復興に寄与。
当地に移転後、寺の伽藍は天明年間(1781~1789)に焼失し、現在の本堂は文化四年(1807)の再建。庫裡は弘化四年(1847)、鐘楼門は慶応元年(1865)に、東圓寺に縁深い富士講中「大我講」のご寄進により再建され、今に至ります。
現在は、天明二年(1782)に全檀家の浄財により造られた木造阿弥陀三尊をご本尊と奉じますが、天正六年(1578)の墨書のある古本尊、大日如来も火難を免れご鎮座。明治の神仏分離令により富士山北口一合目より遷座された不動明王像も驚く信仰を集めています。
20世紀となり、富士講は衰退しましたが、人々の富士山への憧憬は根強く、ことに2013年、「富士山」世界文化遺産登録に伴い、忍野村の「忍野八海」が巡礼地として構成遺産に認められて以降、ゆかりの当寺への関心も高まり、参詣に、また修行体験にと、国内外より多くの方が訪れ親しまれております。