寺院(寺)と聞き皆さんはどのようなことを連想されるのでしょうか。日本文化の礎を担ってきた・・そのような連想をされる方は歴史の大好きな方でしょうか。もしくは、葬式をするところ・・そのように思う人は近親者を亡くされた方ではないでしょうか。多くの人は、寺院について考えたこともないと・・
古くは、諍いの絶えない時代、仏教という教えによって人々に「和を以て貴しとなす」と諭された方がおりました。日本は神の国でした。けれども、人々の幸福を願われた先人たちによって、神と仏が融合した独自の文化を編んで繋いできたことによって、現在の私たちがいます。現在、小さな寺院は存亡の危機にあります。寺院がなくなることは、地域の歴史が埋もれることを意味しています。寺院は、命を守りつないできた先人たちが生きた証そのものであると言っても過言ではないと思います。
現在は、少子高齢化が社会問題となり、高齢者は子供に負担をかけまいとあまり多くを語らず・・葬儀については葬儀社ができシステム化されました。しかし、利便性が重要視されたために、葬儀という儀式がお座成りにされているように感じます。葬儀という形態ができた背景を想像したことはあるでしょうか。
人は必ずこの世を去らなければならない時が訪れます。ある方は言いました。「誰に迷惑をかけないために、私が死んだら火葬だけしてくれればいい・・葬式なんかしなくてもいい・・墓にも入らない。後は散骨でもなんでも構わない・・」と。けれども、そう言われても腑に落ちない。火葬するのは誰が?散骨するのは誰が?
葬儀をするということの意味。お墓が誰のために存在するのか。そんなことを真剣に考える時間が必要ではないかと。誰にも迷惑をかけずに死に行くことが本当にできるのか?家に残され続ける骨壺はあるべき姿なのか?
代々受け継がれてきた、寺院との関わりが伝承されにくい昨今、身近な人の死に直面した時に慌ててしまうことも無理からぬことです。けれども、そんな特別な事態に陥ったときではなく、平常の時に、寺院との関わりについて考えてみてはいかがでしょうか。菩提寺は何のためにあるのか?仏教ってなに?宗教の自由とは?など・・
知人などとする何気ない会話から、寺院にとっては当たり前でも、一般の方は知らないあれこれを取り上げてお話したいと思います。とても便利な時代です。検索すれば答えてくれます。けれども、検索しても出てこないちょっと深いところに・・古より地域に根付いた寺院だからこそできるお手伝いがあるように思います。何かのお役にてば幸いです。
桃の節句
2020-03-03
今日は五節句の一つ桃の節句です。節句とは宮中行事であることをご存じでしょうか。1月の節句は1月7日(人日の節句)七草粥を食べます。3月3日(上巳)麦餅や甘酒などをいただきます。5月5日(端午)しょうぶ湯に入り柏餅を食べます。7月7日(七夕)裁縫の上達を願い素麺を食べます。9月9日(重陽)は菊を浮かべたお酒を頂きます。節句は、季節の節目となる日、旬の植物から生命力をいただき邪気を払う意味があります。
仏教の教えの中に輪廻転生があります。けれども、輪廻転生と言いますが、必ず人が人に生まれ変われるということではありません。輪廻転生は六道(六種類の世界)があり、ここで天国と地獄の話が出てきます。衆生(生きている間の行い)によって、六道のいづれかに行くことになります。
輪廻転生のお話は、どこかの機会でお話しできればと思っています。けれども何よりも大切なことは、死の世界よりも生きている世界でどのように生きることが幸福であるかを考えていかなければいけないと思うのです。
節句の話に戻しますと、節句が古より現代まで継承され、尊ばれてきた理由は健康長寿を願った行事だったからです。そのための知恵が節句に凝縮されています。節句と同じように仏教も、幸福に生きる・・という意味において凝縮された教えがあります。身近な言葉から、想像もできない世界感・・その魅力に気付くと人生は意味深く、生きることの意義を感じずにはいられないと思います。