信心
2020-04-26
信心深い・・という意味をweb等で確認すると、神仏を信じる力が強いとか、篤く信仰すると書かれている。信心深いこということは素晴らしいことだが、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉があるように、過ぎては意味が変化してしまうことを知ることも大切だと感じる。
信心の中には、迷信や誤った情報によって解釈が変化してしまうこともある。誤った解釈で少し過激な思想といえばオウム真理教だったと思う。信者にすれば信心深く、熱心であったからこそ、テロ集団と化してしまったのだろう。オウム真理教の話を出してしまうと、少し話の筋が見えにくくなってしまうので、ここでの話は、信心深いことがすべて良いというわけではないということだけご理解いただきたい。
「信心深い」という解釈でいいのかどうか分からないが忘れたころにいただく問い合わせがある。それは、自信を守るために仏様(仏像)を持ちたいと思っているのだが・・という内容である。時に戦国時代の武将は、勝利の神様ならぬ仏様(仏像)を持ち信仰し、祈りをささげていた話は有名だ。確かに自分を守ってくれる仏がいたら心丈夫かもしれない。
最近は、一昔前には想像もしない品物がネット上で取引されている。仏像も簡単に入手できる。しかし、だからと言って利己的な安易な感覚で手に入れることは危険なので、仏様事は、寺院に相談すること。「餅屋は餅屋」である。ケースバイケースだが、それ相応の適切なアドバイスをしてくれるだろう。仏様は、特別な存在であることを忘れてはいけない。
生きることは苦労の連続である。しかし、苦労があるからその先にある小さな幸福に感謝できるのである。何事も「知る・・」ことが大切である。「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」ということわざもある。「聞くこと」「知ることに」によって、「目から鱗が落ちる」ことも多い。寺院は、生きるための知恵のつまったところ。身近な存在になってほしい。
