忍野八海縁起
節分
2024-02-03
今日は節分。旧暦の大晦日。「鰯の頭も信心から」東円寺では、現在も玄関には、柊の葉に刺さった鰯が置かれる。昨年まで、鰯一匹をさしていたが、最近は小ぶりな鰯が少ないこと(購入しているのが女性なので大きさを確認せず購入していることもある?)から、今年は頭だけにした。現住職の祖母の代からなのか・・住職は、祖母、または、母親にぼそぼそと一匹にしないことを詫びていた。
今日は、忍草浅間神社と内野浅間神社では、節分の豆まきが行われる。開催される合図の花火が聞こえてきた。夕方からは天気が悪くなるようだが、節分祭に影響はないようだ。
忍草浅間神社の節分祭は、42歳厄年の男性が準備をしている。コロナが5類になって初めての節分祭。コロナ禍の影響は、良きにつけ悪しきにつけ、社会を大きく変化させている。伝統の継承が良き形で行われるよう願っている。
文化や伝統の継承は意識をしなければ簡単になくなってしまうことを身をもって感じている。忍野八海は、大寄友右衛門という方によって忍野村を復興、再建、救済して頂いた。大寄友右衛門をはじめとする人々の善意によって、現在の忍野村があると言っても過言ではない。けれども、未だにそのような意識を持っている方は少ない。日本中に起こった大飢饉という天災に見舞われながら、人と人が協力し合って未来を切り開いてきた。協力とともにあったものは、祈りだと思う。
能登阪神地震、元旦という日本人にとっては一年の中でも大切な祝の日。晴れの日である。元旦に震災が起きたことだけでも心が痛む。能登は職人の街・・代々受け継がれ来た伝統産業を絶やしてはならない。何かお手伝いできることはないだろうか・・今は、まだ何も思いつかない・・ただ、祈りを届けたい。
明日は、旧暦の元旦。能登を思い祈りを捧げている人は日本中、世界中にいるだろう。明日が今日より少しでも、希望を持てる日となるように心から祈りを捧げたい。
忍草浅間神社の三神像の不思議
2020-06-18
忍野村(忍草)には、それは素晴らしいお宝がある。それは、忍草浅間神社の三体の神像である。真ん中に女神像・右側に鷹飼・左側に犬飼が鎮座されている。これの何が宝であるのか・・と思われるだろう。しかし、竹取物語に出てくるかぐや姫が真ん中に、右に竹取の翁(鷹飼)、左に竹取の媼(犬飼)と聞いたならば、驚かれる人もいるだろう。そのような背景から、忍草浅間神社の三神像は、国指定の重要文化財に指定されている。
この三神像を造られた方は、丹後国のお坊さんと書かれている。この三神像を造られた数年後、東円寺の聖観音像を造られた。どのような気持ちで、これらの像を造られたのか今となっては知ることはできないことが残念だ。現在生きている人の中で、神仏混合時代を知る人は少ない。1315年に造像された三神像をお坊さんが造ったことに疑問を持つ方もいるだろう。しかし、当時は神仏混合の時代。忍草浅間神社は別当寺院の東円寺が管轄していた。そのような時代背景を知ると、神像をお坊さんが造られたという事実をご理解いただけると思う。
何よりも残念に思うのは、静岡県側の市町村の教育委員関係者がこの三神像について興味を持ってくださっているが、地元ではあまり興味を示してもらえないことだ。興味を持ってもらわないと、様々な調査が行われない・・様々な事実関係を知るためには、専門家に調査してもらうことが重要だと思っている。しかし、それはとても難しいことのようだ。
今から700年前・・忍野村に村民は何人いたのだろうか?富士山からは噴煙が上がっていただろう・・旧東圓寺跡に湯の元という地名があるが、お湯が沸いていたのだろうか・・鎌倉時代の忍草村はどうのようなところだったのだろうか・・と、次から次に疑問や興味がわいてくるのは、おかしなことなのだろうか・・
観光地としての復興事業
2020-05-21
忍野八海(旧富士山根元八湖霊場)は、天保の大飢饉によって忍野村が離散の危機にあったところを、旧市川大門村(現市川三郷町)の大寄友右衛門が先達となり富士講(大我講)を組織し、現代で言う富士山巡礼地(観光地)にすることによって、未来に残る復興事業を行った。
大寄友右衛門の復興事業を辿ると、最近よく耳にするクラウドファンディングに似た組織を作っている。忍野八海を巡ってもらうための富士講(大我講)という組織の名簿が残っている。その名簿にある人は、ほぼ忍野八海復興事業に寄付金を出している。富士山根元八湖霊場(元八湖霊場)が整備されると、八湖を巡り富士登山をした。
この復興事業は緻密な計算が行われていた。古文書を読むとそれが分かる。復興事業費用の内訳は、工事費用以外に、労働者(人件費)に支払われた費用の記載がある。今必要なお金を、復興事業の手伝いをすることによって日当が支払われた。これによって日々の生活が回るようになった。また、復興事業後の収入についても、見込まれる金額がはっきり記載されている。
富士山世界文化遺産の構成資産として登録された八つの池は、現代に繋がっている。江戸時代後期は、富士講禁止令がでるほど多くの富士講信者がいた。しかし、まもなく幕末となり新政府の政策によって仏教は弾圧・・大寄友右衛門が組織した「大我講」は関東近郊に広がったが、衰退するのも早かったようだ。
幕末、戦中、戦後、高度成長、リーマンショック、そうして今コロナウィルス感染に翻弄されながらも、人々は苦しむ誰かを思いながら難局に立ち向かっている。ふと、このような時、大寄友右衛門だったら、どのような未来を見つめ秘策を考えるのだろうかと想像する。
忍野八海??
2020-05-08
富士山が小さな池に逆さに写り込むその美しさは、日本人のみならず海外の方にも愛されている。忍野八海は富士山世界文化遺産の構成資産となり、コロナウィルスが世界中に蔓延する以前は、多くの人で賑わっていた。欧米の方々は、その賑わいをあまり好まないようで忍野八海の中心に位置する湧池に行く人は少ないと聞く。
忍野八海が富士山世界文化遺産構成資産となり、「忍野八海」という総称ではなく八つの池それぞれが構成資産であることを知らない人が多い。それを知らなくても富士山は美しく、忍野村の四季は訪れた人々に美しい思い出を残してくれる。けれども私たちは、なぜ忍野八海それぞれの池が構成資産となったのか伝えていかなければならないと思っている。
それぞれの池には石碑がある。この石碑には、八大竜王と和歌が刻まれている。劣化して文字を確認することのできない石碑もあるが、池を巡ったらまずは石碑を見つけてほしい。忍野八海が総称ではなく各池が構成資産となった最大の理由がこの石碑だからである。富士山は自然遺産ではなく文化遺産である。日本人の心の拠り所として存在する富士山信仰の紛れもない証拠なのだから。
忍野八海という名前は昭和9年天然記念物に指定されたときについた名前だ。それ以前は「富士山根元八湖霊場(元八湖霊場)」という名前だった。いつの間にか「根元八湖霊場」の名は忘れ去られた。また、忍野村の湧水池は無数にあるのだが、「忍野八海」という名称によって池が8つしかないという勘違い現象が起こった。
明治政府によって修験道の廃止・神仏分離・廃仏毀釈は平安時代から培われた神仏融合を忘れさせていった。また、時代は第二次世界大戦に突入。敗戦後、日本社会は大きく変化していった。人々の心から富士山信仰をはじめ、信仰心を簡単に忘れさせた。
いつの時代も変化が繰り返されて現在がある。けれども、変化によって大事なものが簡単に忘れられてしまうのも時代のむごさなのかもしれない。忍野八海については、私たちの使命として、今後も情報を発信していこうと思う。
忍野八海縁起
忍野八海は富士山北東、忍野村忍草にある八つの池(出口池、お釜池、底抜池、 銚子池、湧池、鏡池、菖蒲池)の総称です。富士山に降った雪や雨が数十年かけて伏流水となって湧き出しています。富士山の伏流水が湧き出す池が八つだけだと思われている方も少なくないようですが、忍野村にはたくさんの池があります。なぜ、忍野八海と言われるようになったのでしょう。
東円寺と富士山の関係は、長谷川角行が開祖と言われる富士講よりも、さらに歴史をさかのぼります。富士山がまだ噴煙を上げているころ、富士山に登ることができた人は限られていました。特に、平安時代から鎌倉時代、修験道と言われる修験者にとって、噴煙を上げている富士山に登ることは、修行の一つであり、富士山の霊験を手中に収めることができると信じられていました。そのような時代、忍草には修験道と関わる宿坊を兼ねた富士講でいう御師のような寺院が数軒ありました。しかし、修験道は少しずつ衰退していきました。
時は天保時代に移りました。天保の大飢饉によって、忍草村でも天保8年から9年にかけて、多くの村人が亡くなりました。村を捨て出ていく家族もあったようです。当時、富士北麓地域を統括していたのは、谷村代官所(現:都留市)でした。しかし、歴史的にも有名な郡内一揆(甲斐東部郡内地方:都留郡)が起こりました。谷村代官所は混乱し代官所として機能していなかったようです。忍草村の村役は、市川大門の代官所へ直訴しました。
市川大門村の大寄友右衛門という長百姓は、忍草村の人々を救済するため、知恵を絞って、当時流行していた富士講にあやかって村興し事業を考えました。その事業によって、村人は劇的に救われます。
5番霊場の湧池は、古くから修験道のみそぎの池として重要な役割を果たしていました。湧池を中心とした霊験あらたかな富士山の湧水を利用した「元八湖再興」の事業が始まりました。現存する「八湖再興」の版木には、5番霊場涌池に「行場」という文字が刻まれています。これは湧池の重要性を物語っています。
友右衛門は、市川大門を中心とした近隣の村々に声をかけて、「大我講」という富士講の講中を組織しました。天保11年元旦、畳一畳ほどの大きさの掛け軸に「お身抜き」といわれる富士講独自のお経のようなもの(富士講曼茶羅)を書いた力強い書が残されています。再興にかける友右衛門の意気込みを感じます。
幕末、「江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講、江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人」と謡われるほど隆盛した富士講は、天保13年幕府によって「富士講禁止令」が発令されました。そのような中で、「大我講」は東叡山寛永寺の認可を頂戴しました。友右衛門は、私財を投じ「元八湖再興」に心血を注ぎました。この頃になると飢饉は終息してきました。忍草村は寒冷地のため穀物はほとんど育たなかった時代に、農作物以外に収益を見込んだ友右衛門の発想は、観光産業に目を付けた先駆者だったのではないでしょうか。
忍草村に湧くたくさんの池の中から、湧池を中心に北斗七星の形になるように池を七つ選びました。北斗七星になくてはならない星が北極星です。1番霊場出口池は、2番霊場から少し離れた場所にあります。その形状は版木に記されています。「北斗の形象なり」と。
八つの池を選び、それぞれの池に八大竜王をお祀りしました。一般的に八大竜王はその総称で祀られています。しかし、元八湖霊場の八つの池には、竜王碑が置かれ、それぞれに竜王が祀られています。また、各池の竜王碑には、和歌が詠まれています。池を巡り、お経を読むように和歌を詠みあげたそうです。和歌についても、版木が現存しています。友右衛門の八大竜王に対する思いは深かったようです。天保14年富士山根元八湖霊場は再興されました。畳一畳ほどの大きさの掛け軸に、中心には亀岩八大竜王と書かれ、両側に八大竜王個々の名が力強く書かれています。「お見抜き」と「八大竜王」の掛け軸は、友右衛門の子孫によって修復され東円寺に現存しています。
安政3年12月7日大寄友右衛門は73歳の生涯をとじました。
再興以後は、元八湖霊場で身を清め、忍草朝日浅間宮(現:忍草浅間神社)に参詣し、別当東円寺で入山許可の御印紋を受けて登山するという、元八湖信仰(大我講)が栄えました。天保14(1843)年以後、大我講は関東一円に知られる大講中となりました。明治の廃仏稀釈が発令されるまでの25年間、忍野八海は白装束を着た富士講中が大勢訪れました。やがて、明治の廃仏毀釈以後、富士講の衰退とともに元八湖霊場は世間から忘れられていきました。
第一番 出口池 祭神 難蛇竜王(ナンダりゅうおう)
「難蛇」とはサンスクリット語で「歓喜」を意味します。
常に国を守り、適切な時節に雨をもたらし 百姓を歓喜させる竜王です。
あめつちの ひらけるときに うごきなき みやまのみずの 出口とふとし
[歌意] 天地開闢の昔から、変わることなく 富士の御山の霊水が滾々と湧き出ている。この出口池の、何と尊いことよ。
第二番 お釜池 祭神 跋難蛇竜王(ウパナンダりゅうおう)
[跋難蛇」とは「善歓喜」を意味します。
兄の難蛇竜王とともに国を守り、百姓を喜ばせる竜王。
また変じて人間となり、仏の説法を説きます。
ふじの根の ふもとの原に はきいづる 水はこの世の おかまなりけり
[歌意]霊山富士の麓に滾々と湧き出ている池の霊水は、此の世の罪や穢れを洗い清めて蒸発させてしまうという、まるでお釜のようであることよ。
第三番 底抜池 祭神 娑伽羅竜王(シャガラりゅうおう)
[娑伽羅」とは[海]を意味します。
古来、「雨請い」の本尊として人々の信仰を集めてきました。
「裟伽羅」の字を当てている書物もありますが「娑伽羅」が正しい字です。
くむからに つみはきへなん 御ほとけの ちかひぞふかき そこぬけの池
[歌意]手に掬うやいなや、必ず此の世での罪が消えてしまうと、御仏が確かにお誓いなさっている霊水池は、この底抜けの池である。
第四番 銚子池 祭神 和脩吉竜王(バースキりゅうおう)
「和脩吉」とは「寶」、または「九頭」を意味します。この竜王は九つの頭を持ち、妙高(須弥山)を守り、小悪をなす細竜を食して、人々の災難を除くと言われています。
くめばこそ 銚子の池の さはぐらん もとより水に なみのある川
[歌意]この銚子の池水を汲もうとすると、水面がざわめく。もとより(この池にまつわる悲話の花嫁の)ふるえ悲しむ心をあらわすかのように、さざ波を立てて流れる川のようだ。
第五番 湧 池 祭神 徳叉迦竜王(タクサカりゅうおう)
[徳叉迦」とは「視毒」などの意味を持つ言葉で、この竜王がひとたび怒り凝視すれば、人畜は直ちに絶命すると言われます。衆生の悪業を消滅させる竜王でもあります。
いまもなほ わく池水に 守神のすへの世かけて かはらぬぞしる
[歌意] 尽きることなく滾々と湧く池水は、竜神様が未来永劫に守ってくださるので、いつまでも変わらず流れ続けることよ。
第六番 濁 池 祭神 阿那婆達多竜王(アナバタッタりゅうおう)
「阿那婆達多」とは「無熱脳」を意味します。この竜王は雪山の頂の池に住み、四方に大河を出して大地に恵みをもたらすという、もっとも徳の高い竜王です。
ひれふらす 龍の都のあらましき くみてしれとや にごる池水
[歌意]大空に、領巾(ひれ)がはためく竜宮城の姿が目に浮かぶようだ。その姿を見たくば、この濁池の水を汲んでごらんなさい。そうすれば見えるかも知れないよ。
第七番 このしろ池(鏡池) 祭神 摩那斯竜王 (マナシンりゅうおう)
「摩那斯」とは「慈心」をあらわします。日照りが続く折、人々が七日間祈り続けると、雨を降らせ大地を潤してくれるという、慈悲深い竜王です。
そこすみて のどけき池は これぞこの しろたへの雪の しづくなるらん
[歌意]底まで澄んで、のどかに水を湛えるこの池は、富士の御山の頂の“このしろ池“の水が滴となって湧き出す尊い池である。
(逆さ富士の姿がはっきり映る地なので このような歌が作られのでしょう)
第八番 菖蒲池 祭神 優鉢羅竜王(ウハラカりゅうおう)
「優鉢羅」とは「青蓮華」を意味します。清らかな青蓮華を生ずる池に住み、人々に安らぎを与える竜王です。
あやめ草 名におふ池は くもりなき さつきの鏡 みるここちせり
[歌意]あやめ草の池と、その花の名を冠して呼ばれる池は、一面に咲き誇る様子が、誇り水面に映る渡る五月の青空を 鏡に映すかのように、見る人の心に感じさせるものであるよ。
忍野八海観光案内図
平成21年12月現在
忍野八海観光案内図 (2009-12-11 ・ 1017KB) |
根元八湖再興絵図版図
根元八湖再興絵図 版図 天保14年(184 (2009-11-25 ・ 77KB) |