東円寺 本堂 天井の絵
天井に描かれた不思議な八卦図
東円寺は、長い歴史を刻んできました。長い歴史の間には、様々な不運に見舞われることもありましたが、人と人との関わりの中で、幾つものドラマが生まれました。その一つに本堂の天井絵があります。本堂の天井には、八卦図と四隅に鳳凰の絵が描かれています。八卦図と鳳凰が描かれた理由は分かっていません。陰陽道では、龍がマイナスのパワーを持ち、鳳凰がプラスのパワーを持つと言われます。忍野八海には八大竜王が祀られています。忍草浅間神社の社殿の柱には龍が描かれています。この因果関係は偶然ではないと思います。東円寺の本堂と、この絵を巡って時代を超えて起こった様々なドラマをご紹介したいと思います。
東円寺の現在の本堂は文政4(1821)年に建てられました。当時は、神仏混合の時代です。現在の本堂が建立された経緯は、放火によって本堂が焼失するという事件が起こったからです。小雪がちらつく寒い日に火災が発生しました。ご本尊は、近所の方々が背負って運びだしてくれましたが、本堂は全焼してしまいました。
現在では、忍野八海浅間神社と名前が変わってしまった、忍草浅間神社(当時:忍草朝日浅間宮)は、別当東円寺が管理していました。当時、天台宗の僧侶は妻帯が許されていませんので、身の回りを世話をする小僧さんや、浅間神社には境内を清掃したり、神様を御籠する方がいました。
火事が起こった小雪の舞う寒いその日、本堂の前に足跡が残されていたそうです。その足跡を追跡すると、浅間神社の境内を御籠している人の家に向かっていました。ある人は言いました。「東円寺に残されている古文書を焼き払うために寺に火をつけた」と。焼き払わなければいけないほどの古文書には、何が書かれていたのでしょう。
20年ほど前、古文書の整理をしていると、焼失したと考えられていた古文書は焼けることなく残されていました。そこに記されていた内容は、浅間神社を管理するための約束事でした。「葉一枚たりとも、許可なく持ちだしてはいけない」と。村役員の判が押された念書でした。(念書は東叡山寛永寺と交わしています。当時、東円寺は東叡山寛永寺の直末寺でした)
焼失した本堂の再建は、寄付台帳が残っておらず現在は不明です。しかし、何事も足跡が残されているものです。いつの日か分かる時がくるかもしれません。
本堂が再建されてから、15年が経つと日本中で飢饉が起きました。天保の大飢饉です。忍野村でも、多くの村人が亡くなりました。現在の忍野八海は、「根元八湖再興」という名目で、飢饉に苦しむ村人を助けるために、当時、爆発的な人気だった富士講にあやかって、村おこし事業として幕府の許可を得て造られたものです。天保14(1843)年のことです。
「根元八湖」は、富士講の「大我講」という講中によって関東一円に名が通る大講中となりました。大我講については、忍野八海の不思議で紹介させていただいています。本堂が再建されてから20年の歳月が過ぎたころ、京都の岩清水八幡宮社士中村錬吉重明という人によって、本堂の八卦図と鳳凰は描かれています。古文書にそう記載されていました。しかし、この絵を描いた重明の末裔が富士北麓にいました。その方が昔話を聞かせてくれました。現住職は、この昔話に引き込まれ重明のお墓探しをすることになりました。
重明の末裔の話によると、東円寺の天井絵を描いているときに、身の回りの世話をしてくれた村の娘と恋仲になりました。後々分かるのですが、重明は自分の身分を偽って忍野村に滞在していました。娘との間に子供が授かり男子が生まれると、重明は、子供の身分をきちんとしてあげたいと思い、実家(岩清水八幡宮のある京都の八幡)へ帰りました。重明41歳、息子が満1歳になるときのことです。ところが、待てども待てども重明は帰ってきません。そこで、乳飲み子を抱えた娘は、八幡まで子供の父親を探しに行きました。しかし、重明は帰らぬ人となっていました。
重明が身分を偽り暮らさなければならなかった理由は、重明の生家が名家だったためです。岩清水八幡宮は天領で、重明の家は代々岩清水八幡宮に使える家柄でした。重明は嫡男として生まれましたが、母親が元服する前に病死してしまいました。父親は若かったので、後妻を迎えました。後妻に、男子が生まれました。先妻の子、つまり重明は継母にとっては、疎ましい存在となり、重明は戻らない決心で家を出ました。その後、富士吉田市にある北口浅間神社の下働きをして生計を立てていました。
重明の死の真相は、毒殺でした。嫡男が家に戻ったことを祝う宴を開き、食事に毒を盛り殺害されるという痛ましいものです。
岩清水八幡宮社士という聞き慣れない職業に、岩清水八幡宮へ行き、どのような職業だったのか調べることから始めました。「社士」とは、神官であり武士で、代々受け継がれていたということが分かりました。重明の生家は岩清水八幡宮にとって重要な役割を果たしていたことが分かってきました。一度目の調査では、社士について分かっただけでした。
ある日、本堂の横にいくつもある古墓の中から、重明の供養碑が住職の目に飛び込んできました。戒名と「山城国大谷ニテ」という碑を見て、再び岩清水八幡宮へ行くことにしました。この時、岩清水八幡宮に隣接するお寺があることを知りました。「神應寺」へ行くことになりました。お優しい住職夫妻が、熱心に話を聞いてくださり、過去帳に名前があるか確認してくださいました。東円寺にある供養碑に刻まれた戒名が、神應寺の過去帳にありました。しかし、重明の名前は違っていました。「谷村仲重明」今となっては、偽名を使った理由は想像の域を超えません。お墓も確認することができたらと思い、お墓を見つけていただく約束をして帰宅しました。
一か月後、神應寺のご住職から電話をいただき、お墓が見つかったことをお聞きしました。連絡から1か月後お墓参りに行きました。岩清水八幡宮に使える家柄の中でも、谷村家の存在はずば抜けていたそうです。谷村家のお墓は、谷村家のために建立された「常昌院」の裏手の山にありました。常昌院のある地名が大谷でした。その山の一角に重明のお墓はありました。過去帳に記載されていた「幼少名六僮」石碑には大きな字で「六僮」と刻まれていました。立派に成人した男性の石碑に幼少名が刻まれていることに違和感を覚えながらも、親族の何らかの思いを想像させます。
谷村仲重明 覚清院太心六僮居士 万延元年(1860年)11月12日没 享年41歳
長い歴史の間には、様々な出会いがあります。不思議な縁はこれからも続いていくことでしょう。