富士山根元八湖再興時の大我講名簿
忍野村には、湧水が無数にあります。その中でも湧池は、昔から修験者の禊の池でした。廃仏毀釈以降、修験のお寺は、寺として残るか還俗するかどちらかの選択しかありませんでした。現在となっては、無くなってしまったお寺のほうが多いようです。
忍野八海の再興は、湧池を中心に再興されました。その時の大我講中の名簿です。今回、ここに書かれてている方の子孫が24人東円寺にお参りに来てくださいました。子孫と出会う機会は、古より決められていたのかもしれません。平成16年に『御内八海道供養』碑が、身延町で発見されました。このことを機会に先祖の偉業を子孫に伝えたいと地元の方々が、動き始めたそうです。東円寺としても、お役にたてるよう今後も頑張って、リアルタイムに更新していきたいと思っています。
忍野八海再興古文書 1
元八湖再興費用明細帳(天保14年)
寄付者の名前と工事にかかった費用と人足の数が書かれています。かかった費用は約190両、人足はのべ2500人でした。
掛け軸
大我講中の掛け軸です。 (天保11年に、山梨県市川大門町村の大寄友衛門が、天保の飢饉に苦しむ忍野村の人々を見て、江戸時代に流行した富士信仰に救いを求め、大我講を興しました。)
右下の書は、富士講の御神語(御身抜き)です。御神語とは、富士信仰の開祖食行身禄の作った、所謂、富士講の曼陀羅のことです。力強く、勇壮な筆遣いからは、友右衛門の大我講に寄せる思いが感じられます。
右下の書は、富士講の御神語(御身抜き)です。御神語とは、富士信仰の開祖食行身禄の作った、所謂、富士講の曼陀羅のことです。力強く、勇壮な筆遣いからは、友右衛門の大我講に寄せる思いが感じられます。
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版木
富士講(大我講)関係の版木
東円寺には、天保14年(1843年)元八湖霊場再興時の版木が沢山残されています。順次、紹介していきたいと思っています。今回はその中の三つの版木を載せました。
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